裏千家 今日庵
茶の湯を茶道と申し足利義政公の時より村田珠光、次に武野紹鴎そして茶祖利休大居士が継承されました事はすでに御存じと思います。
茶祖利休大居士は提唱されました「和敬清寂」の大精神を人生の理想とするため「わび茶」を完成されました。裏千家三代宗旦居士によりそれぞれ三人の子供に分家され三千家を継がせられ現在にいたっています。
宗旦居士「茶禅一味」を提唱され「わび茶」を終始されましたと聞きます。71歳の時、自ら後庭に今日庵、又隠席など建立され四代仙叟宗室と共に移り住まれ裏千家を確立されました。四代仙叟より代々継承され十四代淡々斎のとき裏千家淡交会が発足され、十五代鵬雲斎が継がれ人格を養う教理、精神的な面と日本文化を学ぶ総合文化体系として一つの道標となっています。そして国際的な進出、世界文化交流にと貢献されました。平成十四年十二月二十二日、利休御祖堂におかれまして、今日庵第十六家元継承式が行われ坐忘斎御家元が継承され、鵬雲斎は千玄室大宗匠として後を託され、
平成十五年一月一日より坐忘斎御家元の指導方針にもとづき同門社中一同、
ゆとりをもって貢献して行く事に研鑽努力致して居ります。
小笠原流煎茶道
小笠原流煎茶道は遠祖遠光が鎌倉幕府の初代将軍頼朝に仕えて、公達の誕生の儀式を行って以来礼法を今に伝えております。
足利時代の末期には伊勢家の掌っていた内向の礼法を包括してきました。三蓋菱定紋の由来は宗祖遠光が礼王の位を受け王の字を結んだものです。
江戸時代に入って形式主義、格式尊重と武士階級中心の封建社会の中で、儀式、式典の形式内容が確立されたため、小笠原流といえば礼儀、作法の代表語のようになり、一切の他流の礼法を支配して今日におよんでいます。
茶道は礼式と共に発展してきたものですが、抹茶道は室町時代に一休禅師に師事していた村田珠光等によって基礎が固められ、煎茶道の方は江戸時代の中期から末期にかけて、主に文人・墨客の間で非常に盛んになり、それに加えて多くの茶器や道具が中国から渡来してきたので、一般民衆の間に煎茶の愛好者が次第に増えてきました。
明治時代から大正時代にかけて、茶道はますます民衆の中へと一般化していきましたが、茶道精神は次第に忘れられ、煎茶道は技巧化され、模倣に模倣を重ね、茶道は一部の人々に独占されつつありましたが、「宗祖の茶に還れ」という声が高まり、現在の茶道へと発展しております。
今日伝わっているところの式作法は小笠原流作法を基礎として成り立った煎茶方式です。しかし現代の煎茶方式は、時代の流れとともにその時代に適応したものでなけならず、煎茶方式は小笠原流作法を基礎として、従来の伝統を守りながらも現代に相応した茶道として改善と工夫を加え、洗練されて出来上がったものです。このように小笠原流煎茶道は現代社会に最も適応した茶道であり、私たちの日常生活の中にまで深く浸透し、愛好される茶道として確立いたしました。
平成三年には文部省より財団法人の認可を得、財団法人煎茶小笠原瑞峰庵として活躍しております。
表千家 不審菴
千利休を初祖とし、利休居士のわび茶を伝える家元です。利休の孫に当る元伯宗旦が、隠居して三男の江岑宗左に千家の家屋敷と不審菴の茶室を譲ったことに始り、現在は十五代猶有斎千宗左宗匠によって受け継がれています。
四代江岑宗左より幕末まで、代々の家元は紀州徳川家の茶堂を務め、その庇護のもと利休の茶の湯を守り伝えて来ました。
利休以来家元に伝わる文化財保存のため、「財団法人不審菴」が昭和二十四年(一九四九年)に設立されました。また、表千家の家元に伝わる茶道を継承普及するため、「表千家同門会」が昭和十七年(一九四二年)に発会。昭和五十年(一九七五年)には「社団法人表千家同門会」として、日本全国と海外の五十七支部において、茶道普及に努めています。
表千家系譜
流祖 利休宗易
2代 少庵宗淳
3代 元伯宗旦
4代 逢源斎江岑
5代 随流斎良休
6代 覺々斎原叟
7代 如心斎天然
8代 啐啄斎件翁
9代 了々斎曠叔
10代 吸江斎祥翁
11代 碌々斎瑞翁
12代 惺斎敬翁
13代 即中斎無儘
14代 而妙斎宗旦
15代 猶有斎宗左
古儀茶道藪内流
古儀茶道藪内流は茶家として現在十四代を数え、四百余年の歴史を伝えています。
流祖藪内剣仲紹智(じょうち)は、武野紹鴎の弟子で、「紹」の一字と道具一式を伝えられています。兄弟子の利休の勧めもあり、大徳寺の春屋(しゅんのく)和尚に参禅し、「剣仲」の道号を与えられ、その祝いに利休から茶室「雲脚(うんきゃく)」を贈られています。また義兄であった古田織部から、茶道に対して少なからず影響を受け、茶室「燕庵(えんあん)」 と露地、表門を贈られています。
このころの藪内家の住まいは、まだ現在地ではなく下長者町新町にあり、ここで剣仲は九十二才の生涯を閉じています。
二代真翁の代に、西本願寺良如上人に茶頭として迎えられ、現在の地、西洞院正面に移りました。真翁は屋敷を移した後、次第に藪内家の基礎を固め、師家相続を世襲とし、一子相伝を伝えることとなりました。
利休や織部とともに茶の湯の基盤を形成したのが剣仲、古儀茶道藪内流の基盤を形成したのが真翁と位置づけられ、草庵の茶と、書院の茶の作法を併せもっている藪内家の原点の百年余りといえます。
そして今日まで古儀茶道藪内流十四世允猶斎竹卿紹智へと、連絡と傅えられています。
湖月菴流
煎茶湖月菴流は、初代家元高山広月が、大正時代の末頃、知人の紹介にて明治天皇外戚にあたる中山忠綱卿の知遇を得、中山卿との交友の内に数々のご教示を賜り、湖月菴の流名をいただき創流に至りました。
大正末期から昭和初期にかけては、前代の風潮を受けた煎茶道がそれぞれの流派として多様性を示した時代でした。
昭和初年の神戸沖の大演習観艦式に際して、初代家元は昭和天皇へのお茶の接待を仰せつかり、点茶用の千鳥棚(天板が千鳥形、地板は神戸港が扇港と称することに因み、扇形に波を刻む)を考案されました。この棚は由来と共に、今に受け継がれています。
流儀の基本には、中国文人の風雅な教養に学ぶとともに、わが国古来の文雅・風流を加味し、四季折々の情感や故事を取り入れつつ、「自然に(飾らず・技巧的にならず)」ということに主眼をおいて点前や席花などが考案されました。茶席のしつらえや新古の道具を取り合わせた道具組は、文雅と調和を旨としております。
初代の提唱した創流の精神を尊重して三代広瀬千也以降、同好の人々と"湖月会"を中心にして活動しております。
照浪庵小笠原流
照浪庵小笠原流煎茶は、小笠原流礼法を取り入れた煎茶の流儀です。
"小笠原流礼法"というのは多くの人が認めるところ、古く室町時代以前から続く作法の元祖のような存在であり、明治時代には政府によって学校教育にも取り入れられ、日本人の行儀作法に大きな影響を与えております。
照浪庵小笠原流煎茶は、昭和初め藤浪道哉が、師である家元下西道秋氏より「水引折紙」及び「煎茶」を譲り受けました。
藤浪道哉は、明治17年兵庫県に生まれ、京都府立第一高等学校を卒業、女性の社会活動が難しかった時代に、日本国内はもとより中国大陸にも活動の場を広げておりました。昭和22年に戦後の日本の文化の復興のために「姫路茶華道連合会」、そして34年には「煎茶会」の創設に尽力いたしました。
中興の祖として照浪庵を立ち上げ「日本禮道」の礼法を基本に現在の煎茶道を築き上げました。
昭和9年、昭和天皇に水引細工で「播州姫路城模型額面」 を献上いたし、また戦後各地を行幸された際、お茶やお食事の接待役を仰せつかったこともございます。
昭和39年、藤浪道哉没後は藤浪道静があとを引き継ぎ、平成7年には現家元道畑道智と続いております。
古くから引き継がれてきたものをきっちりと次の世代へ繋げていき、今の時代にこそ必要なゆとりと、相手を思いやる心を伝えていければと考えております。
風韻社流
風韻社流の創始者 初代家元戸田秋嶺は、本来陶芸家として知られた人物でした。初代は元和年間より続いた明石藩小笠原家の御用窯「朝霧焼」の九世窯元として頭角をあらわし、宮内庁に作品を献上するまでになりましたが、陶器づくりに精を出しているうちに、陶器の中でも優れた名品の多い茶陶に触れ、次第に心を引かれていくようになりました。
時は折しも明治より大正への転換期、自由を求める大正デモクラシーの風潮は、形式・伝統を重んずる抹茶より、より自由な発想を生かせる煎茶道に世間の目が集まっている時代でもありました。
「茶陶をつくるには茶の心を知らねばならない」と考えた秋嶺は、この煎茶に茶の精神を求めて花月庵流に入門し、煎茶道を学びました。そして文人好みを標榜する当時の煎茶界は漢籍に精通し、書画の才能にも恵まれた彼にとって、格好の活躍の場となったのです。
坂田習軒たちとともに花月庵四天王の一人に数えられた秋嶺は、彼等と一緒に煎茶グループ「松風清社」を作って煎茶会の刷新につとめ、後独立して「風韻社」流煎茶を創流しました。これが「風韻社」の始まりです。
このように「風韻社」 初代家元が優れた陶芸作家であったため、初代の遺した「朝霧焼」の秀作を生かした席作りをすることも多く、これが当流の特色ともいえるでしょう。
瑞穂流
私共の流祖は南紀の豪族であった玉置一族の玉置権頭一咄という茶人武将でした。
戦国時代は手取城一万石の武人でした。茶乃湯は、武野紹鴎門下として茶人系譜にその名が残されております。
江戸時代は紀伊徳川家の家臣として、和佐の領地を与えられておりました。茶乃湯は菩提寺の生蓮寺を中心に一族の茶の湯として幕末まで伝承されていました。明治に入り、十四世一淑翁の時代から京阪神に出て茶乃湯活動を始めております。
十五世一成翁の時から神戸を中心に茶乃湯活動を始めて、一成翁は茶乃湯関係の著作を発表するなど活発な活動をしております。
それぞれが生業の道は別に持ち、茶乃湯の正しい伝承を心がけ、茶乃湯を楽しみ、友を大切にし、茶乃湯を基本として、失われて行く日本文化の維持に努力することが当流茶人の心得と思っております。
因に、紀州和作の生蓮寺には流祖の木像があり、先年その胎内から流祖の「遺爪」の容器が発見され、文化財として保存されております。
(紀州日高城主玉置権頭に始る)
1 玉置 瑞穂斎 一咄
2 〃 〃 一掬
3 〃 〃 一戢
4 〃 〃 一誠
5 〃 〃 一眞
6 〃 〃 一罳
7 〃 〃 一彰
8 〃 〃 一玄
9 〃 〃 一歩
10 〃 〃 一夢
11 〃 〃 一覺
12 〃 〃 一枝
13 〃 〃 一則
14 〃 〃 一淑
15 〃 〃 一成
16 〃 〃 一承
17 野村 瑞穂斎 一典(瑞典)
18 〃 〃 一操(瑞操)当代
武者小路千家 官休庵
三千家の一つ。流祖千一翁宗守は利休の孫元伯宗旦の次男であったが、父宗旦の意を受けて千家を離れ、塗師吉文字屋へ子に行き、吉岡甚右衛門を名った。晩年、塗師の業を中村家(現千家十職の一つ)にゆずり、千家に復し、現在地京都市上京区、「武者小路通り小川東入」の地に茶家を興し、一家をなした。宗旦後妻の千家の兄弟のすすめもあって、茶の湯の道に復したのであるが、利休の追求した茶室の小間に自らの工夫を加えた代表的な一畳台目の茶室「官休庵」を造ったため、代々、当流の代名詞として官休庵流と呼ばれている。又表千家不審庵、裏千家今日庵より離れて御所の西、武者小路通りに面していたため武者小路千家とも言われる。又大徳寺の玉舟和尚より授かり代々の当主が名乗る「千宗守」号から「宗守流」とも言われた。一翁宗
守は茶聖利休をしたい「似休斎」という斎号を用い、四国は高松の松平候の茶頭として仕え、代々がそのあとを踏襲したため、現在も高松を中心とする四国の地に縁が深い。利休より数えれば、流祖一翁(似休斎)は四世、その後は、五世文叔(許由斎)、六世真伯(静々斎)、七世堅叟(直斎)、八世休翁(一啜斎)、九世仁翁(好々斎)、十世全道(以心斎)、十一世一叟(一指斎)、十二世聡松(愈好斎)、十三世德翁(有隣斎)、次いで現武者小路千家官休庵当主、不徹斎 十四世家元と続いている。後嗣号は(随縁斎)宗屋と名乗る。